ART-SCHOOLというバンド

 11月24日、数年ぶりにART-SCHOOLのライブへ足を運んだ。このバンドのキャリアの中で今この時期がとても良い状態にあることが十分に感じられるライブだった。本記事は、その興奮を抱えたまま自室のベッドの上で書いている。読み返していて思ったが、非常に散文的になってしまった。

 

 ART-SCHOOLのことは、彼らの3rdアルバムである『Flora』がリリースされた2007年、私が11歳の頃から好きだった。地元の書店と一体になった小さなCD屋で見つけ、ジャケ買いをした。おそろしいことに、24歳となる今まで10年以上も聴き続けている。ただ、今まで彼らの音楽が好きだということをそれほど人に言ったこともないし、好きな人にも片手で数え足りるほどしかあったことがない。それは自分自身に「何かの熱烈なファン」であることに対して冷めた目線があったからなのだが、事実そこまでART-SCHOOLのファンであるかというと、そうでもない。別にART-SCHOOLのファンに出会ったってそんなに嬉しくないし、むしろファンの傾向的に警戒してしまう。彼らの新譜も熱心に聴いたりしないし、グッズだって欲しくならない。ただ、ルーツを知りたいという欲望のもとに色々な音楽を聴いたり、映画を観るようになったのは間違いなく彼らの影響なので、その点においては呪いのように自分の内面に深く刺さり続けている。 

彼らのキャリアは長く、多くのフェスやイベント、媒体等に出演してきたので知名度自体はそこそこある。が、Vo.木下の立ち振る舞いや発言、演奏技術や歌唱力の低さetc...によって、キャッチーさを得ることができなかったのもまた事実である。しかし、メンバーが激しく入れ替わり(くるりのそれとはわけが違う)、活動休止を経てもこのバンドは確固たる位置付けで長く続いてきた。

 

 前置きが長くなってしまった。別にライブのレポートを書くつもりではないので、セットリストの曲について懇切丁寧にのべる訳でない。あの瞬間の、高揚とせつなさ、うまく言い当てられる気がしないが、興奮と感動をできるだけあざやかに記録しておきたく、本記事を書く。

 

 1曲目のガラスの墓標が終わり、ローラーコースターのイントロが演奏される。心地よく跳ねるリフのループは、曲名でもあるローラーコースターの、結局は始点に帰結してしまう、という性質のようでもある。それはおそらく歌詞の中にも暗喩的に組み込まれている。生と死の表裏一体、逃げ場のない憂鬱をテーゼとしているのだろう。しかし、「君」の存在は問いを投げかける。

  “  君が言ったんだ 「そんな風に生きれたら素敵じゃない?」”

そんな風に生きれたら?という仮定の話ができることは、ただ憂鬱の最中にいるよりもずっと救いがある。そういえば、木下が多大に影響を受けており、度々曲名や歌詞中に引用が見られる、レオス・カラックスの映画でも、恋人たちはパリから出てどこか違うところへ行くことを望む。その「どこか」は具体的な場所ではないし、そもそも具体的な「場所」ですらなかったりするのだが、今いるここから抜け出せば、どうしようもない現実がマシになるのかもしれないと夢想する。

 

 歌詞については記述しようとすると長くなってしまうが、今のART-SCHOOLの状態を伝えるならば触れておかねばならない。行き場のない閉塞感の中にあることをダウナーで儚いメロディに載せて歌った初期の『SONIC DEAD KIDS』と、今年出た『In Colors』では明らかに詩の変化が見られる。『In Colors』の1曲目であるAll the light We will see againのサビはこうだ。

  “  死んだ風に君は生きていくのかい? 俺はそんな風に生きていたくはない ”

  “  俺は唄うんだ 消えてなくなる前に ”

初めて聴いた時は驚いた。それまでの木下の詩は「死んだように生きている」ことが前提だった。貧しい部屋での怠惰なセックス、愛情の喪失、まともな人生への劣等感を20年近くも歌っていた木下になにかしらの変化が起きたことは、あたりまえに驚いたのだが喜ばしくもあった。彼らの根底にあるブルーを捨ててはいない、それでも、喪失の中に萌芽した希望のようななにかを感じることができた。さらに「BOY MEETS GIRL」に代表される、疾走するメロディラインに乗せて美しいものに焦がれるさまはこれまでにも歌われているが、それはごく刹那的な瞬間のパッケージングであり、その先や未来を想われるものでない。

 

 木下自身のマインドに訪れた変化は1リスナーの立場としては図りかねるが、先日のライブを見たことで最新アルバムのポジな勢いについて腑に落ちることができた。しかし、なぜか今回のセットリストでは、最新アルバムからの曲はなく普段演奏しないような初期epの曲やアルバムオリジナルトラックが目立った。「real Love/slow Dawn」というBloc Party的な曲からの(ほぼ「Hunting for Witches」)「BOY MEETS GIRL」の流れがめっちゃオルタナだった。

 

 木下本人も発言しているが、2012年にサポートメンバーに中尾憲太郎藤田勇を迎えたあたりからサウンドの厚みが大きく増した。以降ライブを経るにつれてバンド固有のグルーヴのようなものが育ってきたのだろう。木下の歌唱力やギターの演奏技術が向上した、という訳ではなかったのだが。MC中、Gt.戸高賢史が笑いながら木下に向けて「俺に見捨てられたらこのバンドは終わりだよ」と発言したのも印象的だった。戸高は現在のART-SCHOOLにおける木下以外の唯一のオリジナルメンバーでもある。彼が冗談交じりにそう言えるような日が来るとは。この2018年にそれを目撃することができた、それがとても嬉しかった。 

 

 

 

 

 

デザイン思考とは何か、あるいは思考のダンス

私は高校、専門学校、大学……と、ずっとデザインに関わる生活をしてきた。それも、Adobeのソフトを使い、カメラを使い、ときに手を動かしながら、生み出す側として。

 

ただ、デザイナーとして働く中で求められていたのは、あくまでデザイン案が最終的に求められたものが出来上がるまでのフローの中で発生する、「デザインの技術」だけだった。構造の中にただ組み込まれたデザインを行うことは、機械になったような気分になってしまったし、技術と体力さえあれば誰でもできてしまう仕事を自分が行うことに対して不安を感じてしまった。

 

デザインという言葉に惑わされ、翻弄されてきた。

 

職業としてのデザイナーとなることについて葛藤してるとき、気になっていたデザイン関係の書籍を読んでみようと思った。手に取ったのは躍進的なプロダクトを生み出してきたデザインコンサルティング会社IDEOのCEOとして知られる、ティム・ブラウン著の『デザイン思考が世界を変える』だった。

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この本の新しさは、デザインが技術中心でなく人間中心であるというところだった。

人々のニーズを想像するだけでなく、その内側に溶け込んでいくことで、無意識の不便さを解決する。つまり、人々が声をあげるニーズを満たすだけのものでなく、内なるニーズに気づき、それを作り出すこと。

 

デザインにおける技術は、いわゆるAdobeソフトを使用して制作をするような一元的な役割だけでなく、その思考プロセスー「収束的思考」「発散的思考」「分析」「綜合」にあるということが、実際のプロジェクトの成功事例を交えながら語られている。

 

”一世紀にわたる創造的問題解決の中で、デザイナーたちは「着想(インスピレーション)」、「発案(アイディエーション)」、「実現(インプレメンテーション)」を手に入れてきた。私が言いたいのは、現代ではこれらのスキルを組織全体に広める必要があるということだ。特に、デザイン思考を、”上流”、つまり戦略的な意思決定が下される重役室へと移動させる必要がある。今日では、デザインはデザイナーに任せておくには重要すぎるのだ。”

 

その思考を働く人たち全員が持つことで、デザインだけでなく、プロジェクト、ひいては組織の構造自体もより躍進的で新しいものへアップデートさせて行くことができる。

 

近年急速に普及しているUI(User Interface)/UX(User Experience)という言葉がある。

UIはユーザーインターフェース、つまりフォントやイラストなどの画像全てのデザイン自体を指し、UXはユーザーエクスペリエンス、使用者がその製品やページで得られる使い心地や感情の動きなどを指している。本書で述べられているそのUX、つまり”体験”は共感である。

 

 

 

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4つの思考の中でダンスすることによって、「経済的実現性」「有用性」「技術的実現性」などの制約を受け入れながら新しいデザインの可能性を模索することができる。

 

 

組織全体で、デザイナーが持つ技術的な側面だけでなく、その思考をプロジェクトに関わる全員が共有する。本来は作る側でだけない、”消費者”という役割だけを担うユーザーでさえも。

 

”デザイン思考家は、「消費者に対する私たち」であっても、「消費者を代表する私たち」であってもならない。「消費者と手を取る私たち」でなければならないのだ。”

 

彼が述べるのは、プロジェクトの可能性を模索する中で生まれたアイデアは失敗、ではなく枝分かれした道のひとつであるということだ。

メソッド的なものは何一つこの本には書かれていない。ただ、メソッドを作り出すための思考についての多くの実例が記されている。理想論的な話のように感じる部分もあるが、デザイン的思考に近づくために多くの人に読まれてほしい本だと思う。

 

なんのためにはたらくのか、はたらかないのか

 2月16日、今日はインターンの初日。インターン先は幡ヶ谷にある主にエディトリアルの仕事を受け持つ、中規模のデザイン事務所である。きのうは緊張で眠れず吐き気がひどく、数日前から最大手の就活斡旋サイトに登録し、インターンや説明会なんかの予約を入れ始めていた私は気持ちがひどく重かった。これを書いている今も気持ちが重い。

 

 就活をするのが嫌だという訳ではない。だけど、新卒向けにつくられた企業のサイトページの文言は決まって「仕事で自己実現をしよう」という意味合いの、熱があるように見せかけた定型句である。我々もこのコードでいくから、君達も各々に工夫し、でも決められたコードからははみ出さない言葉を用意してきてね、ということ。

 

 インターンという制度も悪くはないと思う。前はていの良いタダ働きだ!と思って敬遠していたけど、自分の仕事をこなす中で役に立つかも分からない未熟者をいきなり放り込んで勉強させるということは、会社の人にも負担が少なからずあるのだろうから。

 

 今日のインターン自体もとてもよかった。グルメ本の編集長が担当としてついてくれるようになり、来月の22日に発売される雑誌の企画に放り込んで貰えたのはワクワクしてる。決してSTUDIO VOICEやThemeのようにかっこよくて哲学のある雑誌ではないのだけど、私の担当は、企画を考えるのは大喜利のようなものだから、と言っていて、それは仕事に大義名分を持たせるのがクリエイティヴである、というような態度を取る大人よりもずっとクールに感じた。

 さて、世の中にはキモいメディアが多い。キモいと感じるのは、それらの多くがインテリジェンスを働かせなくても感覚的に良い・悪いの判断を行えるようなものだからである。美学的には、目に飛び込んでくる広告に対して無意識に自己を投影させることによって、あたかも自分が「その状態/人物になった」ように思わせるのが優れた広告の効果である、と言われている。

 

 雑なたとえを出すとすれば、吉岡里帆ちゃんが淡いピンクのキャミソールにショーツという出で立ちで髪をラフに束ねて、甘い飲料を飲んで「うまーい!」とか言っていれば、なんとなく飲んでも太らなそうだし、おいしそうだし「それを飲んでいる私もかわいく見えそう」等々のことを意識にならないレベルで思っていたりもする。でも、彼女はきっと現実の生活では砂糖の入った飲み物はあまり飲まないと思うし、体型維持の為の努力は言動からも垣間見れる。

 

 責任を負わずに虚構の夢を見せること、これはとても醜悪なシステムだと思う。でも、夢を見せてくれるのも広告だ。かっこいい広告は沢山あるからこそ、ださくて気持ちのわるい広告やそれに付随するマーケティングを見ると悲しくなってしまう。虚業だと思う時すらある。

 

 話を就活に戻すと、「仕事で自己実現」という形骸化されたコードは日常に侵入してなお虚構の夢を作り出している。自己の人格と仕事が融合してしまうのは、とてもおそろしいことだと思う。おそろしいと感じない人は、たぶん仲良くなれない。

 

 國分功一郎という哲学者は『暇と退屈の倫理学』という著作の中で、”消費活動”を人々が退屈している状態の、退屈を紛らわす簡単な方法であると述べていた。労働者にとっての消費活動そのものが、雇用主に与えられた給与と余暇から発生する、雇用主が作り出したコードに乗る行為であるという。つまり、資本主義ができた当初に確立されたコードが過剰になりすぎていることが、気持ちの悪い就活システムやかっこわるい広告や、その他の生きづらさの要因を作っているのではないか、ということ。これは資本主義以外がいいとか、礼賛でもなく、ただただ、クーデターやシステムの破綻寸前みたいだと思うし(もしかしたら感じなくてもいいような)焦りを感じたりする。

 

 だから就活でひどく悩んでいるし、苦しい。私は女性である自分が好きだし、ヘテロだけど、女性であるということすらときどき捨てたくなってしまう。

 

 どんな結果になろうとも、少しでもなにかを残してこの世を去るためにがんばりたいとも思っている。前述のバイブル、『暇と退屈の倫理学』には大好きな一節がある。

 

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。わたし達はパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

   

 

 そうそう、『暇と退屈の倫理学』の要約のような内容の國分氏のインタビューがあった。私のブログなんて読まなくてもいいから、ぜひ読んでほしい。

www.worksight.jp

 

散文的なブログになってしまった。おやすみなさい。

サッポロビールうまい

 大学生の合コンで蒸れたココスの喫煙席でこの記事を更新する。

 サブカルとメインの境界がごちゃごちゃな過渡期の今は掘れば掘るほど面白いものがあって結構楽しい、と思う。さて、そうは言っても様々な表現活動に関わる人に対して生活・趣味・仕事……など社会に対する自分をかたちづくる行為=お金の消費という人の芸術へのヘイトが浮き彫りになる事態ははまだまだ多い。オリンピックのロゴの件、電通元社員の「一般人」偏差値40発言とか。作る側が享受する側を信用していなさすぎるという問題もあるけれど。

 美意識や価値観でさえ、一般的な倫理感や常識から少し外れているとサブカルチャーとしてすこし軽んじて扱われることも多い。経済的な活動とは別途の、娯楽的なものに対しての欲求を抑えながら生きるという状態は、価値観の多様性が無視される社会の縮図であるようだ。

 そうは言っても、ものを作ることへのコンテクストや背景を無視して楽しめるものが横行している現状では表現活動への批判が集まるのも当然である。大半の人のイメージとしての”芸術”は美術館に飾られているようなアカデミックで高価な作品だからだ。

 アカデミックであることはもちろん大切だ。しかし、アカデミズムに支配されすぎると芸術の多様性は否定される。日本の芸術は大衆芸術から発展してきた。浮世絵も大衆芸術であったし、柳宗悦が発足した民藝運動、そして柳宗理が唱えたアノニマスデザインが生きる国である。柳宗悦の著書『工藝文化』では工芸についてこう述べる。

  

” なぜ高価なものに 工藝を託さねばならないのか。なぜ少量なものに美を委ねさせようとするのか。廉価なものに美を交えることこそ、 もっと妥当な理念でないか。これらの二つに調和がないと、どうしていい切れるのであるか。唯一無二の作が尊いなら、多数の作はもっと尊くはないか。多数に交われない美を、なぜ最も尊ぶのであるか。社会的理念は、在来の美の評価を許し難いであろう。貴族的なものにでなくば、美が乏しいということは真理ではない。真理とはならない。 貴族的工藝は美の領域においてまで高い位置を占める訳にはゆかぬ。美は広々と出て民衆に活かさねばならぬ。”

柳宗悦 『工藝文化』 73P 12行 ~74P 3行目

 

 多数に交われない美、それはファンタジーであり非日常、私たちの生活から剥離したもの。これは工芸に限った話ではない。芸術は人間の精神や価値観、生活や権力と深く関わるものとして発展してきた。人間が信仰をもつ行為が生活に根付き、まだ超然とした存在に畏れを持っていた頃、芸術は一般の人々のものではなく、神的な、特異な存在のものだった。

 しかし、美術の歴史が現代に近づくにつれ、また科学の発展が進むにつれ、人々は芸術に対する畏れや信仰を薄れさせ始めた。夜の闇は電気によって煌々と照らす事ができるし、人間は神が創造したものではなく、猿人から進化したものだと実証されてしまった。現代では、そうした背景の中で宗教や権威的なものが持つ個人の精神への影響力はかなり薄れつつある。同時に、芸術の宗教的な要素は消え去り、今度は人間の長い歴史の中で明確な線引きはないものの、とくにインターネット登場以降、顕著に個人の「自己」を表現することができるようになった。

 

 果たして、いまは芸術が金持ちや権力者のものであるという時代ではない。

 

 人類にとって比較的新しい概念である「自己」は、インターネットの登場によってたやすく発信出来るようになった。しかし、その流れの中で安易な表現が氾濫し、芸術の歴史的コンテクストへの理解を否定する流れが出来てしまっているとも言えるだろう。その流れを受けて現代では、同じ考えを持つ人間がグループを形成し、他の思想を排除しようとすれば攻撃対象があまりに多い。19世紀以前のように、大勢が同じ思想を妄信的に信じるという状況は現代では必ず大きな争いのもとになってしまうのだろう。このような自己表現の氾濫は、「表現の幅を広げる」という点では大変躍進的ではある。

 しかし、こうした生活の多様化・価値観の多様化によって、アカデミックに構築されたものや、権威付けされたものの価値が薄まっているのもまた事実だ。アカデミックな知識と集積物は、歴史と文明の中で積み上げられてきたものの価値であるからこそ「時代だから」という単なる諦めによって失われるものだとはとても言えない。

 ここで、その偉大な知識と集積物を囲い込むのではなく、人のため、芸術の発展のために公開しているメディアを紹介したい。

 

 2016年、ハーバード大学は約9,000点にも及ぶバウハウスのアーカイヴを無料でWeb上に公開した。

www.harvardartmuseums.org

 

 また、ベルリン自然史博物館は収蔵された模式標本・剥製を全ての3Dデータ化し、Web上での無料公開を進めている。

www.zoosphere.net

 

 欧米の美術館・博物館はアーカイヴを保存・維持し続ける方法をデータへ移行しつつある。美術館の貯蔵品のようにアーカイヴそのものに価値性を与えて保持し続ける事よりも、Web上の情報として提供することで、芸術のコンテクストを汲み取る新しいアーカイヴが更新されることへの期待を持っているのだろう。

 芸術的なものは身近に溢れており、私たちに身近な芸術こそ、時間・金銭的余裕がない世代へ芸術の入口をつくってくれる。

 ZINEや同人誌、YoutubeやVimeo等の動画サイトに上がっている個人製作の動画などの個人レベルで発信されるあらゆる芸術は、感受性の多様性を示すものとしてより発展してほしい。  

 身近なものへ目を向けていくことで、芸術全体の価値性、そして制作・発表することで生み出される価値を再び見出すことがきっとできる。生活の中に芸術やデザインが関わっていないものは存在していないのだから。我々が本来持ち合わせているはずの躍進的な欲求や好奇心を抑えることは本当にもったいない、と思う。倫理や社会性を重んじることと同様に、自分自身の感性を大切にし、信じることの価値も大きいのだろう。

  芸術に役割のようなものを持たせるとすれば、それは価値観の多様性を示すことなのだろう。少なくとも私はそれに希望をもち、救われてきた。人と関わることで行う感性の再確認は、たぶん自分に似合う服を探すみたいなことだ。

2017/04/26

 2017年、私は22歳。専門学校を卒業し、働きながら受験した武蔵野美術大学多摩美術大学にどちらも合格してしまった私は、すこし前に急に今まで勉強していた色んなことがどうでもよくなってしまった。受験をしていたときのモチベーションは、専門学校時代に出会った人たち、特に所属していた広告ゼミの同期への劣等感だったと今は思う。いや、劣等感を持っていたからなけなしのプライドを守るために学生を延長して少しでも良い場所へ行きたい、成長をしたい、という今思い返せばとても安直ではずかしい動機を持っていた。

 通っていた専門学校の環境が悪かった、良い友人を持てなかったとか、一切とは断言できないけどもそういうことではなくて、なにかを作り出すことの、喜びも、苦しみも、いまは麻痺してしまっている。それに、広告という大きな対象を動かす、扇動するものへ興味をなくしてしまったのは誤魔化しようがないことだった。

  気がつけばいつも私の生活は知っているだけ、好きなだけ、というもので囲まれている。私はいつも何とも戦わない。すべてを許しているけれど、すべてを諦めているのだった。心理学には快不快原則という、動物は本能的に不快な感情から避けるように行動することを指す用語がある。それに則れば、今の状態はうまれた不快を避けず、心を殺してそのまま受け入れているようなものだ。自分の感じていたことや考えていたことを反故にしてボンヤリと生きることは、いつか感性と自意識の間に軋轢を生んでしまう。それがものを作ることへ対しての諦めへつながり始めたのは、かなり前だったのだろう。 

 好きなものはたくさんあるのに、なにひとつ愛せない、そんな状態がずっと苦しかった。苦しかったことにすら気付いていなかった。

   芸術に関わっている状況にある限り、あらゆるものへのブレイクスルーを求めなければ、と近頃は思う。自分自身、そして自分が好きなものを、ただ好きなものとして囲い込むのではなく、愛することができればブレイクスルーは従属してくるものではないのだろうか。愛することはおそらく、先天的に人間に備わっている機能でない。与えられるだけではだめになるし、与えるばかりでもだめになってしまうのものなのだろう。

  22歳になる人間が今まで、芸術に大きく関わりながら生きてきたというのになににも愛を持つことが出来なかったことは、はずかしい気もする。だけどこのまま生きていくのはもっと恥ずかしくて苦しいのだろうから、ここでぐっと素直になっておこう。色んなものを壊しながら、それでも何も感じないようなふりをして生きるのは、もう嫌である。

 

 ブログのタイトルが思いつかなかったので、暫定的に曽我部恵一のカバーがよくて最近よく聴いているCarnationの曲から引っ張った。Carnationを聴くとニュータウンの中にある真夜中の閑散とした道路、河川敷、あるいは遠くにみえるごみ処理場の煙突を想起する。何に救いを求めるわけでもない、自分の中にこそ革命をもつ、みたいな気持ちがうまれる。

 

www.youtube.com