2017/05/15

 なにかを手に入れたときに、いつも失う時のことを思う。大好きな母親が死んでしまう日のことをしょっちゅう想像して泣いてしまうし、恋人がいるときは別れる時の状況をこと細かに思い描いてはやっぱり泣いてしまう。ある事柄の終わりを想像して、それに対して身構えておく時間を作っておくことが諦念と安心の保障になるのは割にたやすい。

   明け方の電話口でこういった会話を交わした。「おれは死ぬ間際に、いま君と過ごした時間のことを思い出すと思うんだ」「こんな日はこれからもずっと続くと思うけどなにを思い出すの」「ちがう、具体的な思い出でなく、もっと観念的で曖昧記憶だよ」この会話の後、気付いたら涙も鼻水もぼたぼたと落ちていた。理由は今きちんと言葉にはできないけれど、嬉しかったのだと思う。共有した時間の強固さへの、圧倒的な信頼と愛情をもった言葉である。

 

 なにかの終わりを思うことはなにかの喪失を嘆いたり惜しんだりすることでなく、今ある時間をより愛おしく、寸分なく過ごすことであることなのだろう。

  終わりをどこかで期待しながら生きることと、前述の会話の性質は同じだ。どちらも終着点に”死ぬこと” ”終わり”がある。終わりを想像しながら生きることは、いざ終わりが来た時の気持ちをすこしずつ前借りしながら生きているだけに他ならない。そうして訪れるなにかの終わりは救済にすらならなくて、しかし救済としてすがるしかない、という状況になる。ただ自分を欺きながら”その時”に備えてびくびくと生きることにぬるく浸ることは心地良くもあった。

 

去年通っていた予備校の先生に、「現代はいわゆる神や仏を信仰の対象とする宗教でなくても様々な信仰が溢れている。例えば女性が結婚して家庭に入り、子供を産む、という役割を持たされるのも信仰と言える。」という言葉を頂いた。なにより自分で理想形を作ることが出来てしまうことが恐ろしい。そして大抵は良くない方向へ作用する。思考のずっと深いところへ、いつの間にか、本当にいつの間にか染みついてしまっている癖のようなものもまた、自分で作り上げてきた信仰なのだろう。

 

 明け方にしたこの他愛のない会話によって、自分で作り上げた信仰の恐怖や縛り付けからからすこしだけ逃れることが出来たような気がした。これによって救われたとは決して思わない。でも確実に、呪詛のような悲しい自己暗示の通奏低音は止んだ。なにかの終わりを甘美なセンチメンタリズムとして期待するのはもうやめにしよう。今、そしてすこし先を過ごす自分の為に今の私はありたい。