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サッポロビールうまい

 大学生の合コンで蒸れたココスの喫煙席でこの記事を更新する。

 サブカルとメインの境界がごちゃごちゃな過渡期の今は掘れば掘るほど面白いものがあって結構楽しい、と思う。さて、そうは言っても様々な表現活動に関わる人に対して生活・趣味・仕事……など社会に対する自分をかたちづくる行為=お金の消費という人の芸術へのヘイトが浮き彫りになる事態ははまだまだ多い。オリンピックのロゴの件、電通元社員の「一般人」偏差値40発言とか。作る側が享受する側を信用していなさすぎるという問題もあるけれど。

 美意識や価値観でさえ、一般的な倫理感や常識から少し外れているとサブカルチャーとしてすこし軽んじて扱われることも多い。経済的な活動とは別途の、娯楽的なものに対しての欲求を抑えながら生きるという状態は、価値観の多様性が無視される社会の縮図であるようだ。

 そうは言っても、ものを作ることへのコンテクストや背景を無視して楽しめるものが横行している現状では表現活動への批判が集まるのも当然である。大半の人のイメージとしての”芸術”は美術館に飾られているようなアカデミックで高価な作品だからだ。

 アカデミックであることはもちろん大切だ。しかし、アカデミズムに支配されすぎると芸術の多様性は否定される。日本の芸術は大衆芸術から発展してきた。浮世絵も大衆芸術であったし、柳宗悦が発足した民藝運動、そして柳宗理が唱えたアノニマスデザインが生きる国である。柳宗悦の著書『工藝文化』では工芸についてこう述べる。

  

” なぜ高価なものに 工藝を託さねばならないのか。なぜ少量なものに美を委ねさせようとするのか。廉価なものに美を交えることこそ、 もっと妥当な理念でないか。これらの二つに調和がないと、どうしていい切れるのであるか。唯一無二の作が尊いなら、多数の作はもっと尊くはないか。多数に交われない美を、なぜ最も尊ぶのであるか。社会的理念は、在来の美の評価を許し難いであろう。貴族的なものにでなくば、美が乏しいということは真理ではない。真理とはならない。 貴族的工藝は美の領域においてまで高い位置を占める訳にはゆかぬ。美は広々と出て民衆に活かさねばならぬ。”

柳宗悦 『工藝文化』 73P 12行 ~74P 3行目

 

 多数に交われない美、それはファンタジーであり非日常、私たちの生活から剥離したもの。これは工芸に限った話ではない。芸術は人間の精神や価値観、生活や権力と深く関わるものとして発展してきた。人間が信仰をもつ行為が生活に根付き、まだ超然とした存在に畏れを持っていた頃、芸術は一般の人々のものではなく、神的な、特異な存在のものだった。

 しかし、美術の歴史が現代に近づくにつれ、また科学の発展が進むにつれ、人々は芸術に対する畏れや信仰を薄れさせ始めた。夜の闇は電気によって煌々と照らす事ができるし、人間は神が創造したものではなく、猿人から進化したものだと実証されてしまった。現代では、そうした背景の中で宗教や権威的なものが持つ個人の精神への影響力はかなり薄れつつある。同時に、芸術の宗教的な要素は消え去り、今度は人間の長い歴史の中で明確な線引きはないものの、とくにインターネット登場以降、顕著に個人の「自己」を表現することができるようになった。

 

 果たして、いまは芸術が金持ちや権力者のものであるという時代ではない。

 

 人類にとって比較的新しい概念である「自己」は、インターネットの登場によってたやすく発信出来るようになった。しかし、その流れの中で安易な表現が氾濫し、芸術の歴史的コンテクストへの理解を否定する流れが出来てしまっているとも言えるだろう。その流れを受けて現代では、同じ考えを持つ人間がグループを形成し、他の思想を排除しようとすれば攻撃対象があまりに多い。19世紀以前のように、大勢が同じ思想を妄信的に信じるという状況は現代では必ず大きな争いのもとになってしまうのだろう。このような自己表現の氾濫は、「表現の幅を広げる」という点では大変躍進的ではある。

 しかし、こうした生活の多様化・価値観の多様化によって、アカデミックに構築されたものや、権威付けされたものの価値が薄まっているのもまた事実だ。アカデミックな知識と集積物は、歴史と文明の中で積み上げられてきたものの価値であるからこそ「時代だから」という単なる諦めによって失われるものだとはとても言えない。

 ここで、その偉大な知識と集積物を囲い込むのではなく、人のため、芸術の発展のために公開しているメディアを紹介したい。

 

 2016年、ハーバード大学は約9,000点にも及ぶバウハウスのアーカイヴを無料でWeb上に公開した。

www.harvardartmuseums.org

 

 また、ベルリン自然史博物館は収蔵された模式標本・剥製を全ての3Dデータ化し、Web上での無料公開を進めている。

www.zoosphere.net

 

 欧米の美術館・博物館はアーカイヴを保存・維持し続ける方法をデータへ移行しつつある。美術館の貯蔵品のようにアーカイヴそのものに価値性を与えて保持し続ける事よりも、Web上の情報として提供することで、芸術のコンテクストを汲み取る新しいアーカイヴが更新されることへの期待を持っているのだろう。

 芸術的なものは身近に溢れており、私たちに身近な芸術こそ、時間・金銭的余裕がない世代へ芸術の入口をつくってくれる。

 ZINEや同人誌、YoutubeやVimeo等の動画サイトに上がっている個人製作の動画などの個人レベルで発信されるあらゆる芸術は、感受性の多様性を示すものとしてより発展してほしい。  

 身近なものへ目を向けていくことで、芸術全体の価値性、そして制作・発表することで生み出される価値を再び見出すことがきっとできる。生活の中に芸術やデザインが関わっていないものは存在していないのだから。我々が本来持ち合わせているはずの躍進的な欲求や好奇心を抑えることは本当にもったいない、と思う。倫理や社会性を重んじることと同様に、自分自身の感性を大切にし、信じることの価値も大きいのだろう。

  芸術に役割のようなものを持たせるとすれば、それは価値観の多様性を示すことなのだろう。少なくとも私はそれに希望をもち、救われてきた。人と関わることで行う感性の再確認は、たぶん自分に似合う服を探すみたいなことだ。