なんのためにはたらくのか、はたらかないのか

 2月16日、今日はインターンの初日。インターン先は幡ヶ谷にある主にエディトリアルの仕事を受け持つ、中規模のデザイン事務所である。きのうは緊張で眠れず吐き気がひどく、数日前から最大手の就活斡旋サイトに登録し、インターンや説明会なんかの予約を入れ始めていた私は気持ちがひどく重かった。これを書いている今も気持ちが重い。

 

 就活をするのが嫌だという訳ではない。だけど、新卒向けにつくられた企業のサイトページの文言は決まって「仕事で自己実現をしよう」という意味合いの、熱があるように見せかけた定型句である。我々もこのコードでいくから、君達も各々に工夫し、でも決められたコードからははみ出さない言葉を用意してきてね、ということ。

 

 インターンという制度も悪くはないと思う。前はていの良いタダ働きだ!と思って敬遠していたけど、自分の仕事をこなす中で役に立つかも分からない未熟者をいきなり放り込んで勉強させるということは、会社の人にも負担が少なからずあるのだろうから。

 

 今日のインターン自体もとてもよかった。グルメ本の編集長が担当としてついてくれるようになり、来月の22日に発売される雑誌の企画に放り込んで貰えたのはワクワクしてる。決してSTUDIO VOICEやThemeのようにかっこよくて哲学のある雑誌ではないのだけど、私の担当は、企画を考えるのは大喜利のようなものだから、と言っていて、それは仕事に大義名分を持たせるのがクリエイティヴである、というような態度を取る大人よりもずっとクールに感じた。

 さて、世の中にはキモいメディアが多い。キモいと感じるのは、それらの多くがインテリジェンスを働かせなくても感覚的に良い・悪いの判断を行えるようなものだからである。美学的には、目に飛び込んでくる広告に対して無意識に自己を投影させることによって、あたかも自分が「その状態/人物になった」ように思わせるのが優れた広告の効果である、と言われている。

 

 雑なたとえを出すとすれば、吉岡里帆ちゃんが淡いピンクのキャミソールにショーツという出で立ちで髪をラフに束ねて、甘い飲料を飲んで「うまーい!」とか言っていれば、なんとなく飲んでも太らなそうだし、おいしそうだし「それを飲んでいる私もかわいく見えそう」等々のことを意識にならないレベルで思っていたりもする。でも、彼女はきっと現実の生活では砂糖の入った飲み物はあまり飲まないと思うし、体型維持の為の努力は言動からも垣間見れる。

 

 責任を負わずに虚構の夢を見せること、これはとても醜悪なシステムだと思う。でも、夢を見せてくれるのも広告だ。かっこいい広告は沢山あるからこそ、ださくて気持ちのわるい広告やそれに付随するマーケティングを見ると悲しくなってしまう。虚業だと思う時すらある。

 

 話を就活に戻すと、「仕事で自己実現」という形骸化されたコードは日常に侵入してなお虚構の夢を作り出している。自己の人格と仕事が融合してしまうのは、とてもおそろしいことだと思う。おそろしいと感じない人は、たぶん仲良くなれない。

 

 國分功一郎という哲学者は『暇と退屈の倫理学』という著作の中で、”消費活動”を人々が退屈している状態の、退屈を紛らわす簡単な方法であると述べていた。労働者にとっての消費活動そのものが、雇用主に与えられた給与と余暇から発生する、雇用主が作り出したコードに乗る行為であるという。つまり、資本主義ができた当初に確立されたコードが過剰になりすぎていることが、気持ちの悪い就活システムやかっこわるい広告や、その他の生きづらさの要因を作っているのではないか、ということ。これは資本主義以外がいいとか、礼賛でもなく、ただただ、クーデターやシステムの破綻寸前みたいだと思うし(もしかしたら感じなくてもいいような)焦りを感じたりする。

 

 だから就活でひどく悩んでいるし、苦しい。私は女性である自分が好きだし、ヘテロだけど、女性であるということすらときどき捨てたくなってしまう。

 

 どんな結果になろうとも、少しでもなにかを残してこの世を去るためにがんばりたいとも思っている。前述のバイブル、『暇と退屈の倫理学』には大好きな一節がある。

 

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。わたし達はパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

   

 

 そうそう、『暇と退屈の倫理学』の要約のような内容の國分氏のインタビューがあった。私のブログなんて読まなくてもいいから、ぜひ読んでほしい。

www.worksight.jp

 

散文的なブログになってしまった。おやすみなさい。